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ビスタライン 大樹寺~岡崎城 [歴史]

河原町から車で5分くらいのところに大樹寺がある。

 

ここは桶狭間の戦いで今川方であった家康が、敗走し自害しようとしたところ、

僧侶に諭されて思いとどまった寺である。

徳川家(松平家)の菩提寺であり、離れには身長と同じ高さといわれる

歴代将軍(慶喜公以外)の巨大な位牌が安置されている。

※綱吉が飛びぬけて小さく124センチだったが、腰が曲がっていたとの説もあり、

等身大かどうかわ分からない。ちなみに家康は159センチ。

この寺の三門から岡崎城を結ぶ線は「ビスタライン」と呼ばれ、建造物を建てないように

してあるそうです。

三代将軍家光が、家康の十七回忌に、もともと祖先の菩提寺である大樹寺の伽藍を

造営する際、自分の祖父生誕の地を望めるようにと、本堂から三門、総門(今は大樹寺

小学校南門)を通して岡崎城が望めるように一直線に配置されたものだそうです。

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三門から本堂 ↑

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三門から小学校の南門を通して、岡崎城が見える。(3キロ先) ↑

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天下泰平のために生まれ変わる決意をした家康は、以来「厭離穢土・欣求浄土」

を旗印に、前進していくのであった・・・・・・。

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岡崎城。

ちなみに、ここから八丁(八町;約870メートル)西の八丁村で作られていた味噌が、

「八丁味噌」である。(へー、へー、へー、へー・・・・・・)

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人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。

不自由を常と思えば不足なく心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。

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仏陀最後の教え「遺教経」より・・・・・・「忍の徳たること持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり」

さらに「能く忍を行ずる者は、乃ち名づけて有力の大人と為すべし。若し其れ悪罵(おめ)の毒

を歓喜し、忍受して甘露を飲むが如くすること能わざる者は、入道智慧の人と名づけず~」

 

悪罵に耐え、その言葉を喜んでジュースのように飲めと、こうおっしゃっております。それが「忍」

であると!

ははああああああーーー。

 

家康は耐えがたい境遇を偲びながら、様々な教えを吸収し、実践し、哲学を持って国造りをして

いったのですなあ。

 

今度は岡崎城の天主から大樹寺を眺めながら、はるか昔存在していた家康という人間に

思いをはせたのでした。


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豊国廟そして六遊郭の石燈籠 [歴史]

 

先日の京都での豊国廟の話。
 
京都女子大を右手に見ながら入り口に進んでいくと、両脇に大きな石燈籠があった。
 
その土台部分には「六遊郭」という文字が彫ってある。
 
遊郭の寄進なのだろうが、なんでここにと疑問に思ったが、通り過ぎてお墓に向かった。
 
帰ってきて、調べたら驚いた。
 
研究されておる人(「歴史ネコのページ」)がおったんで、そのホームページを読んだら目からウロコや。
 
やはり勉強セナアカン。
 
すべては明治政府の差し金やった。のんきにえらいところにまつられはってと感心してる場合や
 
なかった。
 
豊国廟は権力は権力でも、明治政府の権力で作られたもんやったんや。
 
この廟は朝鮮を植民地化したい明治政府が、二度の朝鮮出兵を行なった秀吉を賛美する
 
ために、1897年(明治30年)に再建させたものだったんや。
 
そして翌年、この石燈籠が大阪の6ヵ所の遊廓から寄進されたんやて。
 
その寄進した遊郭たちも、朝鮮半島に進出していった。
 
徳川の世でも、こんなに秀吉は祀られていたのか・・・家康太っ腹と呑気に思っていたが、
 
豊臣氏滅亡後(1615年)、徳川幕府によって破壊され、その後は荒れるにまかされていた。
 
ところが、明治になり朝鮮の植民地化を国策としていた政府は、二度の朝鮮出兵を行なった
 
秀吉を顕彰することで、その国策の実現に人々を駆りたてようとしたそうな。
  
そのために造られたのが、彼を祭る豊国神社(とよくにじんじゃ)。その場所はなんと「耳塚」
 
の前なんや。ああ、おそろし!
 
「侵略と遊郭」はセットになって大陸を覆っていったのだ。そしてその話は「サンダカン八番娼館」にも
 
つながっていくのでしょう。
 
これやこれ、やはり権力ちゅうもんはおそろしいなあ。
 
詳しくは、「歴史ネコのページ」をお読み下さい。←「歴史ネコさん」!勝手に紹介させていただきました。
 
 

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